アメリカ独立戦争はフランス、スペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。 しかし13州合衆国はまだ緩やかな連合体に過ぎず、内外に対する政策は州ごとに異なって混乱をきたした。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて主権在民の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国(首都ニューヨーク)が誕生した。しかし、この憲法に対する批判運動が各州に起こり、憲法容認の連邦派と憲法反対の反連邦派が抗争を繰り返すこととなったが、これが後の政党となった。憲法に基づいた最初の大統領選挙によって、1789年、初代アメリカ合衆国大統領にジョージ・ワシントンが就任した。なお、日本語で大統領と訳されるプレジデントは、当時はアメリカ合衆国議会の前身である連合会議議長の肩書きとして使われていたものであり、執行権の無い親分的な意味合いしかないものだった。ワシントンは新しい共和国がヨーロッパの帝国の模倣にならないよう国王や皇帝との違いを表す為に、ミスタープレジデントという呼称を好み、最高執行権者となった大統領にそのような特別な権威がないことを印象付けさせたものである.[1] 。
植民地が成長するにつれて補助的な製造業が発展した。特化された製材所や製粉所の様々な形が出現した。開拓者達は漁業船隊を作るための造船所を作り、時には貿易用船舶を造った。また、小さな鉄鋳造場も作った。18世紀までに、地域による発展の方向性が明白になった。ニューイングランドの植民地は造船や船舶の運用による貿易、捕鯨を初めとする漁業に依存して富を作るようになった。メリーランド、バージニアおよび両カロライナのプランテーション(多くは奴隷を労働力に使った)はタバコ、米およびアイを育てた。中間にあるニューヨーク、ペンシルベニア、ニュージャージーおよびデラウェアは一般の穀物や毛皮を輸出した。奴隷は例外として一般的生活水準は高く、実際にイギリスのものよりも高かった。イギリス人投資家達が撤退したので、植民地の人々の中にいる起業家に可能性が開けた。 ボストン茶会事件 1770年までに、アメリカの植民地はイングランド王ジェームズ1世(在位1603年-1625年)の時代以来、イギリスの政治に支配的だった勃興する自治の動きの一部となるために経済的にも政治的にも準備が出来上がった。イギリスとの間で税金やその他の事項に関する論争が起こった。フランスとの長い戦争で経済的にも疲弊したイギリスは、重商主義を推し進める対象としてアメリカ植民地に自国製品やイギリス東インド会社が輸入した茶などを押し付けようとした。このためにアメリカでは1つの産業にもなっていた密貿易を取り締まったり、高い関税を押し付けて自国商品のみが売れるようにしたうえに、印紙法などを制定して課税強化を図った。13植民地のアメリカ人はイギリス人としての権利を要求し、代表なくして課税なしという立場を採ったが、イギリスはこれを否定した。アメリカ人はイギリス製品のボイコット運動を起こし、イギリス商船に積まれていた茶を投棄する事件まで起こした(ボストン茶会事件)。この紛争がアメリカの独立に繋がり、イギリスとの全面戦争となり、遂には新しいアメリカ合衆国として政治的独立と主権を確保した。 17世紀や18世紀のイギリスの政治的動揺に似て、アメリカ合衆国の独立革命(1775年-1783年)は「生命、自由および財産に関する不可分の権利」をスローガンに戴いた中産階級の勃興によって政治的にも経済的にも支えられた。この言葉はイギリスの哲学者ジョン・ロック『市民政府二論』(1690年)から援用されたものだった。イギリスと政治の世界で分離することは植民地人多数の当初目標ではなかったかもしれないが、独立と主権国家すなわちアメリカ合衆国が最終的結果になった。それは成長の時代だった。 独立戦争を担った大陸軍兵士への給与、食料、防備、兵装、兵器やその他の装備に対する財政的な責任は、各邦にその調達ともども割り当てられた。各邦はこの義務を果たすやり方が異なっていた。戦争中は財政を保つことや兵士の士気を保つことが常に問題であった。この時点ではまだ13植民地がそれぞれ独立した邦という色彩が強く、1781年3月1日から大陸会議を引き継いだ連合会議でも、課税権を持たず、対外通商および諸邦間の通商を規制する権限、常備軍を保持する権限もなかった。また各邦からの拠出金によって運営されていたために、連合規約の時期のアメリカ合衆国の財政基盤は脆弱なものであった。輸入税が独自の歳入源として挙げられたが、それを実現するための各州の賛成は得られなかった。このような時期にロバート・モリスが財政最高責任者となり、1782年に合衆国に設立許可された最初の金融機関、バンク・オブ・ノースアメリカを創設した。モリスは歳出を減らす幾つかの改革を行い、競争入札の利用、出金手続の締め付け、および連邦政府が各邦と金や物資の負担を分け合うよう要求することで政府の支出を大きく減らした。 執行力の不足した連合会議ではあったが、1785年と1787年に、将来の西部発展の基礎構築にあたって重要な意味を持つ2つの条例を定めることに成功した。1785年の公有地条例は、北西部領土(オハイオ川、五大湖、ミシシッピ川に囲まれた地域)の連邦所有地の測量、分配の方法を定めたものであった。この方式は、後の合衆国憲法下の政府にも引き継がれ、公有地売却という連邦政府の重要な収入源の基礎となった。また1787年の北西部条例は、北西部領土について暫定的な統治方法を定めたものであった。北西部条例では、北西部領土に将来的に3ないし5の準州を組織して、自由人口が6万人に達したときに旧来の邦と対等の資格で連邦に加入できることも定めた。
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