ゴールデンエイジの映画

南北戦争後の急速な経済成長は現代のアメリカ合衆国産業経済の基盤を造った。1880年代までにアメリカは世界でも最も強力な経済大国としてイギリスに追いついた[23]。 新しい発見や発明の爆発が起こり、第二次産業革命と呼ばれる大きな変化に繋がった。鉄道は格段に営業キロを延ばし、重い貨車や機関車を造り、低料金でより多くの商品や人を運んだ。冷凍運搬貨車が使われるようになった。電話、蓄音機、タイプライターおよび電灯が発明された。20世紀になるまでに、自動車が馬に曳かせる荷車に置き換わり始めた[24]。1851年に設立されたシンガー社は1867年にはイギリスに工場を建設し、ヨーロッパを市場にした。さらに1880年代までに世界中に支店網を広げて多国籍企業のはしりとなった。他にも機関車のボールドウィン社、タイプライターのレミントン社、電灯のウェスティングハウス社など19世紀中に海外で事業展開する会社が次々と現れた[25]。 これらの成功と並行して国の工業インフラも発展した。石炭はペンシルベニア州から南のケンタッキー州までのアパラチア山脈で豊富に発見された。石油はペンシルベニア州西部で発見された。大規模な鉄鉱山が中西部の北、スペリオル湖地方で開業された。鉄を生産するためのこれら2つの重要な原料が得られる場所では製鉄所が繁栄した。銅と銀の大規模鉱山も開業され、鉛鉱山やセメント工場がその後を追った[26]。 工業が大きくなると大量生産方式が発展した。フレデリック・テイラーは19世紀遅くに科学的管理法を編み出し、様々な労働者の動きを注意深く調べてその仕事をするための新しくより効率的なやり方を提案した。1910年以後大量生産はそれまでの水力に代わって工場の電化によって加速された[27]。 1904年の「次」と題する漫画。スタンダード・オイルを冷酷な蛸(たこ)として描いている 19世紀後半の金ぴか時代は大物実業家の時代でもあった。多くのアメリカ人は巨大な資産帝国を造り上げた実業家を理想化するようになった。その成功は、ジョン・ロックフェラーが石油に対してそうしたように、しばしば新しいサービスや製品に対する長期的潜在力を追求したことによっていた。彼等は激しい競争者であり、資産的な成功と権力を求めることでは直向きだった。ハーバート・スペンサーの社会進化論が時代の潮流となり、南北戦争後に長期間続いた共和党政権は、経済に対して自由放任を貫いたので、カルテルやトラストが強力な利益追求の手段となった。 ロックフェラーやフォード以外にも他の巨人として、鉄道で資産を築いたジェイ・グールド、金融業のJ・P・モルガン、鉄鋼業のアンドリュー・カーネギーがいた。大物実業家の何人かは当時の事業標準に対して正直だった。しかし、他の者は力、賄賂および策略を使ってその富と権力を獲得した。それが良きにつけ悪しきにつけ、事業の利益は政府に少なからぬ影響を及ぼした。モルガンはその私的および事業の生活を大きなスケールで展開した。モルガンとその仲間はギャンブルを行い、ヨットに乗り、贅沢なパーティを開き、宮殿のような家を建てた。モルガンはまた聖公会教会の指導者でもあり、世界でも最大級の美術品コレクターだった。対照的にロックフェラーやフォードのような人々はピューリタン的性格を表した。彼等は小さな町の価値や生活様式を保持した。教会に通う者として他者に責任感を持った。個人の美徳が成功をもたらすと信じた。労働と倹約が信条だった。後のその相続者達はアメリカでも最大の慈善基金を創設した。ヨーロッパの上層知的階級が一般に商業を軽蔑して見たのに対し、大半のアメリカ人はより流動的な階級構造のある社会で生活しており、熱心に資産形成という概念を抱いた。彼等は事業のリスクと興奮を楽しむと共に、事業の成功がもたらす高い生活水準とその結果としてくる権力と称賛という報酬を楽しんだ[28]。 アメリカ合衆国政府は、自由放任とは言いながら、外に対しては産業界を保護するために繰り返し関税率の引き上げを行った。これはアメリカがGNPでイギリスを追い越して世界一となった後も、一時期を例外として第二次世界大戦が終わるまで続けられた[29]。 アメリカの労働運動は1869年の最初の意義有る労働組合であるナイツ・オブ・レイバーで始まった。ナイツは1880年代に潰れ、サミュエル・ゴンパーズの下にアメリカ労働総同盟 (AFL) として束ねられた強力な国際的組合に置き換えられた。AFLは社会主義を拒否し、雇用主達とより高い賃金やより良い労働条件について交渉した。組合の成長は1900年まで鈍かったが、その後第一次世界大戦中にピークを迎えた[30]。 この時代の西部フロンティアは1862年のホームステッド法成立や1869年の大陸横断鉄道開通もあって急速に西に移っていった。ホームステッド法は一定の条件を満たした者に160エーカー(約 65 ヘクタール)の未開墾の土地を無償で払い下げる制度だった。それまでアメリカ合衆国政府は獲得した領土を公有地として民間に売却することで財政を補ってきたが、労働運動の草分け的存在であるジョージ・ヘンリー・エヴァンズ、北部の新聞編集者ホレス・グリーリー等が1840年代から無償化の提案を続けていた。ここへ来て財政的に安定したことや反対していた南部州が脱退したこともあって無償化に踏み切った。東部からの移住者や南北戦争の敗北であぶれた南部の住民が西部に入り、一時は無法化した地域もあった(西部開拓時代)。ホームステッド法は1976年で打ち切られ(アラスカ州のみ1986年まで)この間に払い下げられた土地は160万件、その面積は2億7,000万エーカー(108万平方キロメートル)で、アメリカの国土の10%に達した[31]。1890年には国勢調査局長が、フロンティア・ラインと呼べるものがなくなったことを国勢調査報告書に記載し、フロンティアの消滅が宣言された。歴史家のフレデリック・ターナーは、フロンティアと合衆国の民主主義・国民性を関連づけて論述した(フロンティア学説)。 伝統的な農業を近代化する改革者達は1867年に農民共済組合運動を始めた。連邦政府による土地払い下げによって各州は農業大学を創設し、農夫に近代的技術を実演して見せる農業相談員のネットワークができた。1890年代の小麦や綿花の農夫達はポピュリスト運動を支持したが、銀の自由鋳造やインフレーションの要求は失敗した。その代わりに1896年の選挙では金本位制と息の長い工業化計画を国に認めさせることになった。