西部開拓時代 (1865年~1890年)の映画

領土は太平洋へ到達したとは言え、東西交通は馬車か船舶での移動に頼っていた。地上を行く馬車は移動に半年を要する上に、大平原やロッキー山脈を越えなければならず、インディアンの土地を侵犯することによる襲撃などもあって、危険な交通手段であった。船舶は基幹の大量輸送交通であったが、南米大陸の南端を回る為、移動に4ヶ月を要し、さらに南米南端の海域は常に荒れて事故が多発した。こうした交通網の未整備により、ゴールドラッシュによって人口が急増したとは言え、西部には基幹産業も無く発展が遅れ、陸の孤島のような有様であった。これは、南北分裂の上に、西部まで分裂する可能性を含んだ問題であり、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の機関となる大陸横断鉄道の建設を進めた。 鉄道建設は苦難の連続であった。西側からは新参の中国人移民が駆りだされ、シエラネバダ山脈で低賃金の労働をしたが、爆薬としてニトログリセリンを、安全性を軽視したまま使用させたことにより、多数の死者を出した。東側からは食詰めの貧困白人が駆り出され、鉄道沿線に労働者街を形成したが、この新たな街は法秩序が確立されておらず、流入したアウトローのギャングによる盗賊行為が頻発したため、労働者は自ら武装して、戦いながら線路を建設した。また、無法者を裁判無しで処刑できる、いわゆる「リンチ法」が制定され、一定の抑止力となった。さらに、生活圏を脅かされることを恐れたインディアンが線路沿いで蜂起し、白人労働者を殺戮したため、政府は2000人の軍を沿線に投入して制圧した。1869年に最初の横断鉄道が開通したことを皮切りに、次々に開業した。南北戦争の残務処理も終わり、アメリカは実質的にも精神的にも、国土が一つとなった。 合衆国はやがて、鉄道建設の邪魔になり、西部のインディアンの生活の糧でもあるバッファローの政策としての絶滅作戦をとる。組織的なバッファロー虐殺によって、平原のバッファローはただ殺され、19世紀初頭に4000万頭を数えたバッファローは1890年ころには1000頭を切ってしまった。平原のインディアンたちは生活の柱を奪われ、保留地で飢えることとなった。また、1875年頃にAlbert's swarmなどの蝗害を引き起こしていたロッキートビバッタも、バッファローが減少したことで草原の環境が激変した結果、1902年頃には絶滅することになった。 横断鉄道の完成によって西部との物流・交流が活発になり、西部開拓時代が到来した。広大な西部では放牧が盛んに行われるようになった。牛を追いかけて生活するカウボーイは西部を象徴するものとなり、テキサスから国土を縦断して鉄道駅まで牛を追うロングドライブといった生活方式も生まれた。農業は、少ない人口で効率よく生産するため機械化が進み、大規模農業をすることができた。鉄道・道路網の拡大によって西部との一体化が進み、国内市場の拡大は工業産業を飛躍的に高めた。しかし法秩序が確立されていなかった西部では、ギャングや盗賊によって治安が悪化し、これを防ぐために保安官が登場した。 太平洋に達したアメリカの領土だが、1868年に北部アラスカをロシア帝国から安値で購入した。西部の人口はさらに増加し、急速に生活圏を奪われたインディアンは、1860年代から1870年代にかけて、各部族による一斉蜂起を行った。これがインディアン戦争であり、米軍との間で20年以上の争いとなった。結局、蜂起は次々に鎮圧されてゆき、ナバホ族のように領土を一時完全に没収されるか(ロング・ウォーク)、保留地へ幽閉された。指導者は戦いで死ぬか毒殺されるかして部族のコミュニティも壊滅させられ、人口も減少していった。さらにドーズ法はインディアンの社会を根本から破壊し、彼らの土地のほとんどを白人農業者のものとした。 1871年、合衆国政府は「合衆国はもうインディアン部族を独立国家とはみなさない。したがって今後はもう主権条約は結ばない」と宣言した。この時点で、全米のインディアン部族の領土(保留地)は総計51万㎢に過ぎず、合衆国政府は1778年から1868年の100年足らずの間に、インディアンから1億1000万エーカー(44万5200㎢)の土地を没収し、768万㎢の国土を手に入れていた。西部の最大反抗勢力のスー族も、シッティング・ブルやクレイジー・ホースが殺され、南西部でアパッチ族のジェロニモが投降し、「ウーンデッド・ニーの虐殺」を機に、「開拓に邪魔なインディアンの掃討作戦は終了した」として、合衆国は1890年に「フロンティアの消滅」を宣言した。インディアンはさらなる同化の意図をもって、「インディアン寄宿学校」へと子供たちが強制入学させられることとなった。

独立後1800年代

アメリカ合衆国は外国から購入し新しい領土を獲得していきます。

フ ランスはMississippi川の西側(東側は1783年のパリ条約に基づき合衆国がイギリスより割譲)を所有し、ここをLouisiana Territoryと呼んでいましたが、当時のフランス皇帝ナポレオン ボナパルト(1769-1821)より、1803年に購入しました。

 

アメリカ合衆国第3代大統領Thomas Jefferson(在職期:1801-1809)は1,500万ドルという破格の値段(1エーカーあたり3セント)でこの領土を購入(Louisiana Purchase)し、これにより合衆国の領土はほぼ倍に拡大しました。